インカ文明の奇祭、そしてインカ帝国について

インカ文明
マチュピチュ

インカ文明と聞けば、思い出されるのはマチュピチュですが、謎の多いとされるインカ文明について、調べてみました。

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インカ帝国っていつの時代に、どのあたりで繁栄したの?

1200年頃に成立したと言われていて、特に15世紀から16世紀の前半にかけて繁栄したとみられている。地域は南アメリカ北西部のアンデス高原を中心に、最盛期には現在のエクアドル、ペルー、ボリビア、チリの北部に当たる地域を治める大帝国で、面積は100万㎢(日本の約3倍)人口は600万人であった。

曖昧な表現になっているのはインカ文明には文字が存在せず伝承でしか残っていないため謎の多い文明とも言われている。インカとはもとは小さな部族の名称だったがその部族が、その後に中心となって帝国を作っていったので、後に帝国そのもや文明をインカと呼ぶようになった。ちなみに、インカとはヨーロッパ人の呼称であって、インカ人は「タワンチン・スウユ」(4つの地方からなる国土)と呼んでいる。

15世紀中盤頃から急速に拡大していった帝国も、その後に内紛が起こり、伝染病の被害と合せて、その機に乗じたスペイン人によって1533年に征服され滅亡をしてしまう。マチュピチュはスペインの侵略から避難する場所として築かれたものと考えられている。

インカ文明とはどんな文明だったのか?

インカ帝国は、宗教と政治が一体化しており、太陽信仰が国家の基本となっていた。皇帝は太陽の子であり神格化され、帝国は太陽の帝国であった。

首都はクスコで世界遺産に登録されていて、3400mの高地にある。マチュピチュの玄関口でもあります。国民の大半は農民で、山を切り開き段々畑を作り、ジャガイモやトウモロコシ、カボチャなどを栽培していた。国土は4つの地方に分けられて、それぞれに長官が置かれた。農民は集団に所属して、それを単位に生活をしていて統制されていたようだ。

道路網も『インカの道』として、クスコを中心に東西南北に密林なども貫き、まっすぐに建設され、最短距離で結ぶように設計されて、しかもとてもきれいに管理されていたようで、雑草一つはえていなかったとスペイン人の記録にもあるようですえ。飛脚制度があり、一定間隔で配備されていて、猛烈なスピードで駆け抜ける飛脚によって情報は伝えられたという。

インカ帝国には貨幣経済がなかった

山岳地帯に都市を造り、農地を切り開いたり、水道も整備されていたりととても高い文化を持っていたインカ帝国にはそれでいながら、貨幣を持っていなかったという。

経済活動は中央の支配層が管理していて、個別に商取引などが行われていなかったということだろう。逆に言えば、そうしなくても生活に必要なものは国から与えられて、税金はお金で支払うのではなく、労働で国に貢献するという考え方であったのではないでしょうか。

富をため込む人もいなければ、みんなで支え合うという考え方があったのではないかと思えたら、世界平和を実現していくためにはこの考え方はなくてはならないものだと思います。そういう意味では、過酷な環境だからこそ、支え合う文明であったとも言えるのではないでしょうか。

インカ帝国には文字がない

文字が存在しなかったため、史実などが少ない文明ですが、記録するためにキープと呼ばれる長いひもに異なる色の短いひもを結びつけ、その多様な色やひもや結び目に意味を持たせて記録をしていた。(画像を参照)それを読解する専門職が居たほど難解で、スペインに征服されてからはその文化はなくなり、今日でも解読方法は謎に包まれたままで、全ては解読されていないそうです。

キープ インカ文明 文字代わりとなるもの

 

インカの奇祭 インティライミ

インカ帝国は太陽信仰が国家の基本であり、そのインカ帝国が一番重視した祭事が、毎年冬至に行われるインティライミという太陽の神をたたえる祭である。インカの言語であるケチュア語で、インティ=太陽、ライミ=祭という意味があり、最高神である太陽と大地の神に、この一年の感謝と新たな1年の豊作を願う儀式としておこなわれるものである。

王は普段は太陽のことして姿を見せることはなかったが、この祭の時だけは全ての民とともに、太陽と大地の神に祈りを捧げたという。多彩な舞踊や行列が9日間続き、大地の神への感謝の供物として動物が捧げられ、収穫期が満ち足りたものとなることを願う。

インカの奇祭 インティライミ
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