1985年のドラフト会議の注目は、
その夏の甲子園で優勝をしたPL学園の桑田真澄と清原和博であった。
二人は、1年生の時からエースと4番としてそれぞれ活躍し、選手として出場できる甲子園大会のすべてである5回の全国大会に出場し、そのうち優勝が2回・準優勝が2回・ベスト4が1回というあり得ない記録を残した。
二人はKKコンビと呼ばれ、最強の高校生コンビとして注目されていた。
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清原は巨人入りを熱望
清原は、読売ジャイアンツへの入団と、ホームランバッターとして、尊敬する王貞治監督の下でのプレーを熱望していた。
また、巨人サイドもそれとなくで、その空気は助長されていった。
当時の巨人王貞治監督は清原氏に対し、「キミは野手ではNO.1の評価だ」と言って1位指名をほのめかし、清原を指名するような雰囲気は作られていったため、巨人の清原指名は既定路線であるという認識は、清原自身を含めて世間の認知ともなっていた。
桑田は早稲田大への進学を表明
早稲田大学への進学を表明し、ドラフト会議4日後の11月24日に早稲田大学教育学部の入試を控えていた。
そのため、進学志望を表明している桑田への指名は回避されると思われた。
巨人が指名したのは桑田だった
注目の1985年のドラフト会議は、11月20日に開催される。
清原には6球団が1位指名を行い、しかしながら巨人は清原を指名することはなかった。
その巨人が指名したのは、進学を希望して指名を避けるように動いていた桑田であった。
これには、世の中全体が青天の霹靂であり、清原にとっては相思相愛だと信じていた巨人から裏切られ、そしてチームメイトだった桑田がその巨人から指名を受けるというショックで涙を流すシーンも見られた。清原は抽選の結果、西武ライオンズが交渉権を獲得した。
巨人から指名を受けた桑田は、早稲田大学の入学試験を辞退し巨人に入団することになる。
清原1位指名すると見られていた巨人が、土壇場で早大進学表明の桑田を単独1位指名。
桑田は進学を撤回し巨人入り。その直後から「疑惑」「密約」があったのだろうとマスコミは騒ぎ立てた。
巨人の思惑は
ねらいは2人とも獲得すること
巨人のシナリオは、
清原と巨人は相思相愛、蜜月であることを知らせ、重複指名する球団をできるだけ少なくする。一方で、桑田には「早大進学」と言わせて他球団から手を引かせる。
1位清原、2位桑田指名で目玉の2人を獲得する作戦だった。
事態は前夜に変更された
ドラフト前夜の会議で競合覚悟でかなりの球団が清原を1位指名することがわかってきた。実際に6球団が指名をした。
抽選で清原を逃してしまい、他の球団がもし桑田をダメもとで1位指名を強行するなら、当時の桑田家の経済状況ならば大学進学は難しいので、よそに流れてしまうと読んだ巨人は、どちらも取れなくなることを恐れ、急きょ、清原は諦め桑田1位に方向転換したという。
「桑田とは密約がうんぬんされましたが、当然あったと考えるのが自然でしょう。」と球団の元関係者は明言している。
それからのこと
一部スポーツ紙では桑田に関する記事では必ず「疑惑の入団の桑田」と枕ことばのような表現を執拗に続けた。
清原は入団1年目にして高卒新人史上最多の31本塁打を記録し、1年目から主力として大活躍し、西武の黄金期を支え、通算2,122安打 525本塁打の輝かしい戦績を残した。
桑田は、入団2年目には15勝を挙げ防御率一位と沢村賞を獲得する。通算173勝を挙げる。
やはり、2人は怪物であった。
その後、清原はFA権を行使し、1997年のシーズンから巨人に移籍し、2005年に自由契約となってオリックスへ移籍するまで再び桑田とチームメイトとなったのは因縁めいている。
2年後の日本シリーズで、リベンジを実現!
日本一へ、あと1死。西武が胴上げ準備に入ったとき、二塁・辻がタイムをかけ、試合が中断した。一塁・清原が泣いていた。「最後や。しっかり守らんかい」。辻の言葉でひと呼吸つくと、工藤は篠塚を中飛に仕留めた。打倒巨人で日本一。清原の夢が実現した。
その後、清原は西武に入団、桑田も清原は、1987年の日本シリーズで西武が巨人を破った際、シリーズ制覇目前となった試合終了間際に守備位置で涙を流したことが語り草となっている。
ドラフト事件簿の主役はいつも巨人ですね。強欲の極みだと私は思います。
KKドラフトは結局、清原を傷つけ、桑田にダーティーイメージを植え付け、巨人のイメージをダウンさせ、早大に迷惑をかけた。今から考えれば、制度に欠陥があるにせよ、球界の盟主の巨人がやることではなかったと思います。
と元球団関係者は話ししています。
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