今年は10月17日に行われるドラフト会議。
選手にとっては今後の人生が大きく決まるこのタイミングで球団をも巻き込んだ
大きな事件となったできごとが過去に何度となく起こっている。
その中で今回は「江川事件」についてご紹介をしたいと思います。
今年のドラフト会議についてはこちらをご覧下さい。
江川事件
1978年のドラフト会議前日に読売ジャイアンツとの電撃的な入団契約を結んだ投手・江川卓の去就をめぐる一連の騒動。いわゆる「空白の一日」問題。
3度のドラフトを経て、念願の巨人に入れない悲運のエースのドラフトの歴史は以下の通りだった。
Contents
1973年(高校3年時)のドラフト
阪急がドラフト1位指名する
江川は「進学希望」として、慶応大学への入学を目指すと表明。
指名ができた大洋・南海・近鉄・日本ハム・中日は江川の意向を尊重し、指名を回避したが、6番目の阪急が強行指名をした。
大学進学は変えず入団拒否
慶応大学を目指したが、入試不合格だったため、法政大学へと進学をする事になる。
1977年(大学4年時)のドラフト
法政大学で記録的な大活躍
1年目からエースとして、通算47勝(史上2位)、完封数17(史上1位)、ベストナインにも6度選ばれるなど輝かしい記録を残す。
進路にあたって、巨人への入団希望を表明。巨人側も1位指名の方針を固め相思相愛の関係であった。
指名したのはクラウン
この年はクジによって球団の指名順位を決定する方式であり、指名順は1番目がクラウン、2番目が巨人だった。
水面下では作新学院理事長船田中によって巨人以外の全球団オーナーに江川指名を回避するよう工作が行われており、クラウンの中村長芳オーナーも例外ではなかったため、江川の巨人入団は確実と思われた。しかし、当時観客動員で苦しんでいたクラウンは経営再建の切り札にと江川を強行指名した。
江川は入団拒否
「九州は遠すぎる」という理由で入団を拒否した。
大学卒業と同時に作新学院職員という身分で南カリフォルニア大学へ聴講生として野球留学という形を取った。翌年にプロ野球に入団できる条件を保つためだった。
クラウンの身売り
1978年10月クラウンは、西武グループに球団を譲渡、翌1979年より球団名を西武ライオンズに改める。
西武は本拠地を埼玉県所沢市に移転させることを発表した。
西武はクラウンから交渉権を引き継ぐと、球団社長を渡米させて江川と入団交渉を行う。
しかし、江川の翻意はなく、11月20日を以って西武は江川との交渉権を喪失してしまう。
空白の一日
ドラフト外入団で契約
巨人側は「ドラフト会議の前日は自由の身分で、ドラフト外の選手として入団契約可能」と解釈し、ドラフト外入団という形で契約締結を決行した。
セ・リーグ会長は選手登録を却下
●ドラフト会議の前日の11月21日には西武の交渉権が消滅。
●ドラフトの対象者は「日本の中学・高校・大学に在学している者」である。
●11月21日時点でドラフト対象外選手である江川と自由に契約できると主張して入団契約を行った。
ドラフト対象選手を在学生野球選手と社会人野球選手に限定すると解釈できる文言になっていたことは野球協約の盲点であった。
しかし、セントラル・リーグ会長の鈴木龍二は『巨人が主張する「空白の1日」はあくまで手続き上から生じたものであり、この契約は野球協約の基本精神に反するもの』として巨人の選手登録申請を却下した。
1978年 3度目のドラフト会議
阪神が交渉権を獲得
巨人が屁理屈をこねなくても、他球団は江川を指名する意思は無かったとされる。
しかし、巨人の蛮行に抗議する形で、南海、近鉄、ロッテ、阪神が1位指名をした。抽選の結果、阪神が交渉権を獲得。
巨人はドラフト会議の無効を主張
巨人側はあくまで江川との契約の正当性を主張。「全12球団が出席していないドラフト会議は無効であり、阪神に江川交渉権獲得はない」と提訴。
しかし、巨人が勝手にやったこととして、ドラフト会議の結果はそのまま有効に。その上で「江川と巨人による入団契約は認めない」ことと「阪神の江川に対する交渉権獲得を認める」ことを正式に決定した。
巨人がセ・リーグを脱退してドラフト制度に左右されない新リーグを作る構想を公言するなど混乱は続いた。
コミッショナー裁定
事態の解決に当たり、コミッショナーは、「江川には一度阪神と入団契約を交わしてもらい、その後すぐに巨人にトレードさせる形での解決を望む」という裁定に対して、巨人はそれを受けて12月27日に「空白の一日」による江川との契約を解除する事となった。
電撃トレード
1979年1月31日、巨人と阪神は、阪神が江川と一度入団契約を交わし、同日中に小林繁との交換トレードをすると発表。
小林は、巨人のキャンプ地である宮崎に渡るため羽田空港に向かっていたが、ここで巨人の球団関係者に呼び止められ、阪神と契約した江川との交換トレードを告げられた。
これによって江川は念願の巨人入りを果たしたが、あまりにも唐突な展開だったためファンやマスコミからは「電撃トレード」と騒がれ、その多くは非難の声であった。
江川の出場を自粛
巨人は、同日のプロ野球実行委員会において一連の騒動について全面的に謝罪し、公式戦開幕から5月31日までの約2ヶ月間、江川の出場を自粛させることとした。
江川は6月1日に一軍選手登録され、翌6月2日の阪神戦で初登板した。また、江川と入れ替わりに阪神に渡った小林は、この年には対巨人戦8勝負けなしという成績を収め、意地を見せた。
悪役江川の転機
大人の事情に巻き込まれた形かも知れないが、悪役のイメージは江川にはつきまとった。
入団2年目の1980年は、16勝の最多勝と最多奪三振と好成績だったが、沢村賞を逃す。
そして翌1981年は20勝6敗での最多勝をはじめ最多奪三振、最優秀防御率、最高勝率、最多完封と投手5冠を獲得し、シーズンMVPにも選ばれたのだが、沢村賞には同僚の西本聖投手が投票で選出された。西本投手の成績は18勝12敗だった。
当時の沢村賞はプロ野球担当記者による投票だったが、担当記者たちが江川投手を“敬遠”したことは一目瞭然だった。
ところが、これによって、世論は思わぬ方向に動いた。「いくらなんでも江川がかわいそうだ」と次々に同情が江川に集まっていった。日本シリーズなどでの、江川に対する絶大な拍手は記憶に新しい。入団以来、世論からも、そしてチ―ムメートからも白い目で見られていた江川は、一躍、人気者となってしまった。
改めて、記事を書いてみて「巨人」の思い上がりが見て取れますね。当時は相当な力を持っていたでしょうが、今やその地位は絶対的なものではなくなっています。少しずつでも球界が健全な運営をなされるように願うばかりです。
コメントを残す