野村克也さん死去 これまでの経歴と残した名言は?

野村克也氏

元プロ野球選手で、監督を歴任されて

現在は野球解説者の野村克也さんが

2/11 84才で亡くなられた。

「野村克也」

野村克也氏の経歴は

オフィシャルサイトによれば

京都府立峰山高校を卒業し、

1954年にテスト生として

南海ホークスに入団。

3年目の1956年レギュラーに定着すると、

現役27年間にわたり球界を

代表する捕手として活躍。

歴代2位の通算657本塁打、

戦後初の三冠王など

その強打で数々の記録を打ち立て、

不動の正捕手として南海黄金時代を支えた。

「ささやき戦術」や

投手のクイックモーションの導入など、

駆け引きに優れ

工夫を欠かさない野球スタイルは

現在まで語り継がれる。

また、

70年の南海でのプレイングマネージャー

就任以降、延べ四球団で監督を歴任

他球団で挫折した選手を

見事に立ち直らせ、チームの中心選手

に育て上げる手腕は、

「野村再生工場」と呼ばれ、

ヤクルトでは「ID野球」

黄金期を築き、

楽天では球団初の

クライマックスシリーズ出場を

果たすなど輝かしい功績を残した。

インタビュー等でみせる独特の発言は

ボヤキ節と呼ばれ、

その言葉はノムラ語録として

多くの書籍等で野球ファン以外

にも広く親しまれている。

スーパースターであった

王・長嶋と比較して、

自らを「月見草」に例えた言葉は

有名である。

選手歴
・京都府立峰山高等学校
・南海ホークス(1954年-1977年)
・ロッテオリオンズ(1978年)
・西武ライオンズ(1979年-1980年)
監督歴
・南海ホークス(1970年-1977年)
・ヤクルトスワローズ(1990年-1997年)
・阪神タイガース(1999年-2001年)
・シダックス(2003年-2005年)
・東北楽天ゴールデンイーグルス(2006年-2009年)

生涯一捕手として3,017試合に出場

通算安打数2,901 通算本塁打657

本塁打王9回

打点王7回

首位打者1回

三冠王1回

最優秀選手賞5回

という輝かしい経歴である。

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野村語録は名言であった

成功の条件は10個
「(1)願望の持続、(2)信念(反復の中で信念が生まれる)、(3)良き理解者に恵まれる、(4)計画性、(5)専門知識の豊富さ、(6)忍耐力、(7)判断力と決断力、(8)潜在意識の判断、(9)頭脳明晰、(10)第六感」そして、「代償を求めない成果は存在しない」「生きがいを無視に成功は考えられない」と。
考えることを放棄すると、すべてが幼稚になる
世の中もずいぶんと幼稚な世界になってしまった。政治のこと、経済のこと、日々起こる犯罪など……。野村は、野球とは、仕事とは、人生とは、と自問自答していくことで考えが深まる「とは理論」を説いてきた。考えることを放棄していては、この「幼稚さ」の渦からは脱却することはできない。
配球も人生も、大事なのは「緩急」
すべてのボールを一球入魂、全力投球したがるのが「真面目な優等生」、手を抜いても許されるところでは加減して、遊び心を持って投げているのが「不真面目な優等生」。エースと呼ばれる投手は、そのほとんどが不真面目な優等生だった。人生だって、適度な遊び心を持たせることが肝心である。全力投球ばかりしていたら、やがて生きることに疲れてしまうだろう。

「働く」とは、ハタ(傍)をラク(楽)にすること
家族やふるさと、国を愛せない人間に「チームを優先させる」ことはできない。1、2点リードされた終盤に、先頭打者がすべきことは、可能な限りピッチャーに余計な球を投げさせ、勝利への執念を見せること。それが相手バッテリーやベンチにプレッシャーをかけ、次の打者を楽にさせることにつながる。

小さなことにこだわれば、大きなものを手にできる
小さなことの積み重ねの先には、大きな光が待っている。人の心に最終的に残るものとは、自らが考えて導き出しこだわって取り組んだ「小さなこと」だ。

野球における名言ではなく、

人生を生きていく上での

指針となる言葉ですね。

数々の功績をプロ野球界に残された

野村克也氏のご冥福を心よりお祈りいたします

 

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