中村哲医師銃撃され死亡 アフガニスタンの英雄が犠牲に。

アフガニスタンで中村医師に敬意を表す壁画

アフガニスタンで殺害された

NGO「ペシャワール会」

現地代表の中村哲医師の

葬儀が故郷の福岡市で行われた。

参列者は1300人を超え、

突然の別れを惜しみ、

その思いを継いでいこうと誓った。

事件が起きたのは?

12月4日、パキスタンとの国境に近くの

ジャララバードにて、中村医師は

午前8時ごろに宿舎を出発し、25キロ離れた

用水施設の工事現場に向かっていた。

そこへ武装グループが2台の車に分乗し、

中村医師の車を追走し、行く手を遮り、

銃撃を加え、ボディガードと運転手も

含めて全員を殺害した。

中村医師の日々の通行ルートを把握していた

計画性があり強い殺意があったとみられている。

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アフガニスタン人のために尽くした人生だった

1986年から中村医師は、医師がいない

アフガニスタンの山岳部で

医療支援の活動を始めた。

汚れた水しか飲むことができない

アフガニスタン人のために

「薬よりきれいな水を」

井戸掘りや灌漑用水路の建設の

支援事業に取り組んだ。

中村医師が取り組んだ

灌漑用水路建設のおかげで、

アフガンの荒れ果てた大地に

少しずつ緑が戻ってきた。

その上で、1万6500ヘクタールの土地に

水を送り、およそ65万人分の食糧を

確保することが可能となった。

「生きる条件を整えることこそ、医師の務め」

との信念を貫いた。

中村さんの合言葉は

『100の診療所より1本の用水路』

だった。

用水路を自ら工事する中村医師

活動のそもそものきっかけは、

1978年、医師として同行した

ネパールへの山岳会の遠征隊。

虫好きだった中村さんが

蝶に惹かれて参加したのだった。

ところが、医師がいると知った

現地の人が中村さんを頼りにした。

蝶が誘った縁だった。

中村さんは1983年にペシャワール会を設立。

パキスタンやアフガニスタンで

無償で医療援助を始めた。

ところが、2000年に活動の転換を迫られる。

この地域を襲った大かんばつを

目の当たりにし、

「まずは食べられるようにすること」

の必要性を感じた。

中村さんは医師として治療に関わるかたわら、

命をつなぐ「水」を確保しよう

と取り組み始めた。

そこで参考にしたのは、

資金も道具も限られていた

江戸時代の治水技術。

自ら工具を握って土を堀り、

農地を作った。

伝統的な工法は、現地の人が自力で

管理できる利点もあった。

彼らの唯一にして最大の望みは

『故郷で家族と毎日3度のメシを食べる』

です。国民の8割が農民です。

農業が復活すれば外国軍や武装勢力に

兵士として雇われる必要もなく、平和が戻る。

『衣食足りて礼節を知る』です」

水がもたらす豊かさが人々の平穏を導き、

ひいては大きな意味の平和に

繋がると説いていた。

日本国憲法9条を体現した中村医師

中村さんは生前次のように述べたことがある。

「向こうに行って、9条がバックボーンとして僕らの活動を支えていてくれる、これが我々を守ってきてくれたんだな、という実感がありますよ。体で感じた想いですよ。武器など絶対に使用しないで、平和を具現化する。それが具体的な形として存在しているのが日本という国の平和憲法、9条ですよ。それを、現地の人たちも分かってくれているんです。だから、政府側も反政府側も、タリバンだって我々には手を出さない。むしろ、守ってくれているんです。9条があるから、海外ではこれまで絶対に銃を撃たなかった日本。それが、ほんとうの日本の強味なんですよ。」

世界で唯一の被爆国でもある日本が

世界に向けて、平和の実現を

このようにしてやるのだという

武力に頼らないやり方で、

世界の困ったところへ貢献しに行く

そんな貢献ができるなんて

本当に頭が下がる思いです。

 

日本国憲法前文には次のようにある。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

まさに、中村医師の生きざまそのもの

であるように思います。

 

ご冥福を心よりお祈り申し上げます。

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